建築を観る
西陣電話局
29歳でこの世を去った、建築家、岩元禄。
活動したのは、
大正7年(1918年)に東京帝国大学を卒業後、
亡くなる大正11年(1922年)までの、わずか4年間。
その間、
兵役に服したり、闘病したりといった期間を除くと、
実質的に設計に携わったのは、ほとんど、
大正9年(1920年)の1年間に限られてしまうようです。
岩元禄は、
与えられたそのほんのわずかな期間に、
3つの建築をのこしました(異説あり)。
その中で、現存する唯一の建築、西陣電話局。
間取りは「なんの変てつもない」矩形。
彼のエネルギーの大半は、
平面ではなく、外観のデザインに注ぎ込まれています。
「建築の用途がその芸術の中になんとか納まればいいんだ」…。
柱の上にのる裸婦像や、壁面や軒裏を覆うレリーフ。
彫刻やレリーフは、
「最初は粘土でつくりまして石膏で型をつくり、モルタルを流して仕上げたものです」…。
「みな岩元さんが石膏型にとって、それを基にして現場につけた」…。
岩元禄は、その強烈な作家性から、
建築が芸術であることを強く求めていました。
「こういう理知的な、打算的な建築ではダメだ、
俺の建築はガイスト・スピーレン(精神的遊戯)だ、
ガイスト・スピーレンでなくちゃいかん」…。
このように建築に、
純粋に芸術性のみを求めていく姿勢は、
現代ではなかなか受け入れられないものなのかもしれません。
ただ、こうした岩元禄の姿勢は、
明治以来、
ただひたすらに西洋を学び続けるという硬直した状況を、
突破するものでもありました。
彼は、
「日本で過去様式やそれを支持したアカデミーに抗した最初の存在」で、
明治以降の日本で「創造をはじめた」最初の建築家でした。
そして、この西陣電話局は、
「日本近代建築史上、はじめて建築家によって人まねでない、
そのひとの個性によってデザインされた」建築でした。
「短い生涯、少ない作品」…。
だからこその突破力というものもあるのかもしれません。